昭和五十六年一月二十二日 朝の御理解
御理解 第二十二節
「天地金乃神と云えば天地一目に覧て居るぞ神は平等におかげを授けるが受物が悪ければおかげが漏るぞ神の徳を十分に受けようと思えばままよと云う心を出さねばおかげは受けられぬままよとは死んでもままよの事ぞ」
天地金乃神と云えば天地を一目に覧てござるという神様という事は天地の事すべてを開きどおしに開いておって下さる神様という事にもなるわけですね。今朝からこうして御祈念をさせてもらいます。いうなら祈念詞、神徳讃詞又は神前拝詞、天津拝詞そして大祓に替わるもの、先祖讃詞に替るもの霊前拝詞始めから最後まで聞かせて頂いとって皆さんどうだったでしょうか。違和感というのが無いでしょう。こりあ、みようなふのちいうのがいでしょう。それは今まで合楽で教えを頂いておったすべてがこの拝詞になっておるからだと思う。今までいうならば聞きなれ頂きなれてきておったからです。
例えば今まで天津祝詞とか大祓なんかは、ふっとこう人間心を使うとあらこんな事いうたっちゃ、こんな事唱えていいだろうかと、特にあの先祖讃詞なんかを今の合楽理念をもって合楽理念の勉強をした人が唱えておりますと、それこそ違和感を感じたんですよね。このな事唱えていいのだろうかと思うような節々、けども過去百年やはり教祖金光様が始めの間は般若心経も唱えられたり、又は禊いわゆる大祓とか天津祝詞も唱えにれたもよう。御神前には花、お線香のようなものも奉られたりなさったんですね。
いわゆる大祓、般若心経なんかは神も仏ももう手の舞足の舞をして喜ばれるような内容が謳ってあるといいます。天津祝詞、大祓なんかというのは勿論御神道からきたものですが、これは六根清浄、六根清浄とこう申しますね。その魂、身も心も清まる事の為にだからそういう意味あいにおいてあげてきたんですね。所が今日の御理解を頂きましてですね、天地金乃神といえば天地一目に覧ておるぞと仰せられます。天地一目に覧て居るという事は、天地一切を聞きどおしに聞いておって下さる。その聞きどおしに聞いておって下さる事をです私共が日頃頂いておる信心によってこりあちょっと神様もこんな事は聞いて下さらないのじあないだろうか、こんな事はみょうなふうに神様が思いなさらせんじあろうかといったような、いうなら文章から云うとそれがあったんですね。
だから金光教の唱え詞ことばとしてはいうならば、不完全なものであったわけです。それがまあこのようにしてすばらしい内容の祈願詞拝詞が出けたんでございますから、この内容をいよいよ内容として、これをじいっと聞いておるだけでもすばらしいです。
そして皆私共はそれが納得の出来る思いが致します。それは今まで合楽に御縁を頂いておった人達が朝に晩に頂いておる御理解がそのまま打ち出されておるからでございます。そういう意味で大変有り難いことに、まあ百年といや長いようですけれども、千年万年いうならば人類史と申しますか私共人間がこの世で生を受けさせてもろうて、人間と一緒の営みをくり返させて頂いてきたそれから云うともう本当に百年というのはわずかな事、いわゆる教祖の神様、いはば今も申しますように、お経のようなものをあげておられた。般若心経をあげられたり、又は六根清浄という禊祓なんかも味はられた。それが今日までおかげを受けてきた。けれどもいわゆるぴったりと私共が日頃頂く教えとこうぴったりするというものを感じられなかった所がここへ百年という節年ふしどし、大きな節年を目指して大きく金光教が変わろうとしておる、又、このようにして早速変わっておるのである。まあだ一般では百年祭からこの皆さんが今日唱えられた拝詞、祈願詞というものは、替えられるんだそうですけれども、昨日も申しましたようにこれが本当だと分からせて頂いたら、もうすぐにでも改めていかねば、いうならば神の云う事を聞かせてもらはなければおれんのが私の信心の性状と申しましょうが性格。
だから皆さんもそれに合わせて下さる事になったわけですけれども、いよいよ、いわゆる、その天地を一目に覧ておるぞと仰せられる天地の一切を聞きどおしに聞いておって下さる方にもう本当に人間の願い思いというものを天地に訴える。聞いて頂く、お礼を申し上げる、そういう内容を奏上させて頂く事になりました事をこりあもうそれこそ本当の意味においての合楽世界顕現の為のいうならば基礎基盤がこれによって出けたというような感じが致します。そういう思いを込めてね、これからの御祈念をなさらなければいけません。昨日、一昨日でしたか、福岡の伊藤さんが参拝をしてみえて、お知らせを頂かれたと、御祈念中に、巻寿司の切らないやつが四本、三本、二本、一本とピラミット型にお供えしてあって神様にお供えしてあるところを御神願に頂かれたという。
そしてこうお供えをしてあるとの中にはまあ普通でいうならかんぴょうとかいろんなもんが入っているが、そこんところに丁度レモンを二つに切っておるようなレモンの型が丁度菊の花を切ったように見えますよね、ミカンをこう切ると、がシンになっておった。それで又御祈念しておられたら、それが胡瓜巻ですね、切ったシンが胡瓜に変ってたというおしらせを頂いたとこういわれます。たとえばどんなに唱え詞がすばらしいなら、これが本当に金光教独自のいうならば祈願詞であり拝詞なのですね。もう金光教でなければ唱えられない、金光教でなからなければこういう表現は出けないというような表現の言葉をまあ駆使してこの祈願詞、祈念詞ですか拝詞が出けてをります。
ならその内容というのは今申しますように、私共がおかげを頂かなければならない総ての事がままにならなければならない。寿司というのは、寿を司ると書いてある。私共の幸せの条件の総てを司るもの、それは天地金乃神の御恩恵によくしなければならない、その御恩恵を私共信心させて頂くものに特に集中するよな働き、それは漠然とこの宇宙の中には氏子幸にせねばおかんという働きが一ぱい充満している。ただ充満しておるけれどもここ一ヶ所に集めるような働き。金光大神取次の働きなのです。それは丁度あのレンズを紙に当てますね。こう特に黒くこう書いた物を当てますと燃え出すでしょう。それは太陽の光をここに集中するからです。してその黒い所が燃え出すような働き。私はその巻きずしというのは、こりあ必ず浅草海苔が使ってございますからね。もうままになるというてもそういう修行にくるまれたものでなければならない。
そしてその内容は合楽、菊の花というのは合楽のシンボルのように云われる、いわゆる合楽精神というものが中になからなければならない。それをいうならばピラミット型にしてお供えがしてあったというのです。しかもそれがあのその菊の花のようなレモンのそれが胡瓜に変わったという事は胡瓜をもじって書きますと、久しい利とあります。(久利きゅうり)いついつまでも頂けれるおかげという意味であります。胡瓜のおしらせはお徳といわれます。それを頂くおかげ、それを私は今日の二十二節からです。天地を一目に覧ておるという神様、しかも、そういう神様のお徳をここに集中する。集める苦労という事はめぐりという事も云えましょう。そのめぐりを焼き切って下さる程しの働きがおこってくるのです。レンズをこうあてる、そのレンズによって集中されたその熱という太陽熱が黒い所を先に燃やしてしまうでしょう。こがしてこう燃え出してしまうように、私共が持っておる難儀の元であるめぐりをいうならば焼き切ってしもうて下さる。
昨日も林さん達が親子三人でお参りして、あそこは立派な息子が三人居ますが二人子供つれてどうも就職のおかげ願っとるけどもなかなかよい就職がない。ようやく福岡にあると思ったら、下宿をしなければならない、こちらから通うというとわずかばかりの給料では足りないといったような、まあ右左どうしたらよいかといったようなおうかがいがあったからもう林さんの家ではね、ただお願いをしたおかげを頂いただけじあなくて、まあ今日の御理解からいうとめぐりを先に焼き切って下さる働きが先におこっておるよというて話した事でした。いうならば、あんた達がこれから妻帯、いわゆる嫁さんを貰はんならん。勿論三人が立ちゆく為の就職のおかげも頂かんならん。今のままでは、なら働けど働けど貰った給料じあ足らないという事になるじあないか。それよりもそれを受ける受物を先に作れ。もう神様あんた、林家には願ったからすぐおかげを下さるじあなくて、いうならばおかげの受物を作れ、基礎、基盤を作れというてまあ昨日の御理解を話した事です。いうならば神様が焼き切って下さる働きがもうすでに始まっておる。この苦労の元を根こそぎ焼き切って下さるそこから頂ける本当のおかげがいわばおかげその間を自分の心は合楽精神に基づくというか合楽理念に基づいていわばその修行を楽しゆう有難うさせて頂いておればそれこそ愉快にその事を通して信心の稽古が出ける。
そうしていく中には、やはり今日の御理解にありますように、昨日なら神の云う事を聞く者が少ないと仰せられる。ああ親先生がああおっしゃったからもう病気になるならんは別としていうなら親先生のいう事を聞くという事になるところに度胸がいる。今日の御理解でいうとままよという親先生がああ云われるからとそこにままよという度胸をすえて御教えを頂く事になり、それを行ずる事になり、それがいつの間にか菊の花のような合楽のシンボルといわれるような喜びが心の中いっぱいに充満してくる。それが、そして又いつの間にか久利に変る、徳に変る。
はじめていうなら寿を司る、寿司のおかげも頂けるようなもんだ。そういうまあ一つのおかげを頂くという順序段取りいわゆる生きた働きとは本当にそこに難儀なら難儀を焼き切る、いうならば金光大神というレンズ体にあてさせて頂いてお取次を頂くという事は、私共のいうならば難儀の元を焼き切って下さる程しの教が合楽では合楽理念として説かれるわけである。そういう日頃稽古させて頂いておる信心が今度の神前拝詞ですかね。神前拝詞又は神徳讃詞又は又は霊様の奉る霊前拝詞の中にそれを唱えている間にそれを実感する事が出けるようなまあいうなら仕組みに今度替わったわけでございます。
だから唱え詞だけずに終わらずに、その内容をいよいよ合楽理念に基づいておかげを頂き、御神徳を頂いて、喜びを頂き御神徳を頂いていよいよ神様に金光大神に喜んで頂き、私共もいよいよ幸せさして頂くおかげを頂きたいと思います。
どうぞ